清水満 古書画修復作品展は終了致しました。
佐藤知津子「少女」展 布絵とお人形

第40回古書画修復作品展−中屋長江口店2階中屋菓寮-午前10時〜午後6時 期間中無休

下記作品のほかにもいろいろな古書画その他を展示中。尚、下記の作家ご紹介は表示されている写真の作品とは合致していません。中屋菓寮にてご確認下さい。画像をクリックすれば拡大写真がご覧になれます。

菅茶山(かん ちゃざん(さざん)、延享5年2月2日(1748年2月29日) − 文政10年8月13日(1827年10月3日))は、江戸時代後期の儒学者・漢詩人。名は晋帥(ときのり)。字は礼卿。通称は太仲・太中。幼名は喜太郎、百助。備後国安那郡川北村(現広島県福山市神辺町)の出身。
ウィキペディア(Wikipedia)より抜粋

乃木 希典(のぎ まれすけ、1849年12月25日(嘉永2年11月11日) − 1912年(大正元年)9月13日)は、日本の武士・長府藩士、軍人。陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院院長。贈正二位(1916年)。 「乃木大将」、「乃木将軍」などの呼称で呼ばれることも多い。
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高浜 虚子(たかはま きょし、1874年(明治7年)2月22日 - 1959年(昭和34年)4月8日)は明治〜昭和期の俳人、小説家。本名・高濱 清(たかはま きよし)。ホトトギスの理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱したことでも知られる。
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勝 海舟(かつ かいしゅう、文政6年1月30日(1823年3月12日) - 明治32年(1899年)1月21日)は、日本の武士・幕臣、政治家。雄弁家としても知られる。明治期の枢密顧問官、位階勲等は正二位勲一等伯爵。
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山岡 鉄舟(やまおか てっしゅう、山岡 鐵舟、子爵、天保7年6月10日(1836年7月23日) - 明治21年(1888年)7月19日)は、日本の武士・幕臣、政治家、思想家。剣、禅、書の達人としても知られる。鉄舟は号、他に一楽斎。通称は鉄太郎(鐵太郎)。諱は高歩(たかゆき)。浅利義明門下の剣客で、一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。
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吉井 勇(よしい いさむ、1886年(明治19年)10月8日 - 1960年(昭和35年)11月19日)は歌人、脚本家である。元伯爵。
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林 文塘(はやし ぶんとう) (1882〜1966)
明治15年5月20日、京都に生まれる。本名幸三郎。山元春挙に師事、早苗会展に出品、のち後素協会会員となり早苗会評議員をつとめる。大正8年井口華邨、池田桂仙らと自由な製作をめざして日本自由画壇を結成、のち昭和18年早苗会の解散とともに耕人社の結成に理事として参加する。
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直原 玉青(じきはら ぎょくせい、1904年8月1日 - 2005年9月30日)は日本の画家、禅僧。岡山県赤磐郡(現:赤磐市)生まれ、兵庫県の淡路島で育つ。本名は正。大阪美術学校(大阪芸術大学ではない)卒業。帝国美術展に初入選後、日展に16回入選する。南画の第一人者。
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今尾景年(いまお・けいねん)1845-1924年
京都出身。浮世絵師梅川東居に師事。鈴木百年に入門。京都府画学校に出仕。シカゴ、パリなどの万博で受賞。如雲社に参加。京都府画学校嘱託教授。大正8年帝国美術院会員

清水 公照(しみず こうしょう、本名:睦治(むつじ)、1911年1月3日 - 1999年5月6日)は華厳宗の僧侶。第207世、第208世東大寺別当、華厳宗管長となり、大仏殿昭和大修理を行なう。独特の味わいのある書画、陶芸で知られる。昭和38年ごろから「どろ仏」と称するユニークな小さな仏像を制作した。泥仏庵と号す。また、「今良寛」の異名がある。
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速水 御舟(はやみ ぎょしゅう、1894年8月2日 - 1935年3月20日)は、大正期〜昭和初期の日本画家。初めの名は蒔田栄一(まきた えいいち)。1894年(明治27年)8月2日、東京浅草に生まれる。従来の日本画にはなかった徹底した写実、細密描写から、やがて代表作『炎舞』のような象徴的・装飾的表現へと進んだ。長くない生涯に多くの名作を残し、『名樹散椿(めいじゅちりつばき)』は昭和期の美術品として最初に重要文化財に指定された。1935年(昭和10年)、腸チフスにより急逝。享年40。
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塩川文麟( しおかわ ぶんりん) 京都に生まれる。 1808年〜1877年1808年京都に生まれる。1877年没する。生年には異説がある。父は、安井蓮華光院門跡の侍者。字は子温。幼名は隼人。通称図書。はじめ草章と号し、可竹斎などの別号がある。門跡に画技を認められ、岡本豊彦に師事して四条派を学ぶ。弘化2年(1845)に豊彦が没してからは、四条派を率い、明治初期までの京都画壇を代表する画家のひとりとなった。安政年間の御所再建に際して、常御殿などの絵画制作に携わった。明治元年(1868)、中島来章、円山応立、国井応文らと如雲社を結成して、京都の画家たちの結束を深めた。明治9年(1876)フィラデルフィア万国博覧会に出品。門人には、幸野楳嶺がいる。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年、一部加筆有)
徳島県立近代美術館より抜粋

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