原田富夫回顧写真展は終了いたしました。
 先日来モデルの“麗ちゃん”からの勧めがありまして、“ない”と思っていた当時のアルバムが屋根裏から出てまいりました。この度、多くの方々のご縁を頂きまして、“五分間ノ映像コンテスト”の物語に続く写真展を開いて頂きました。若い頃の情熱。不自由な時代にも見つけた楽しみ。その頃の尾道は“あんなだった”との思い出。そして写真好きの方には70年前当時の写真の世界。それぞれの方々に色々感じていただけると幸いです。
尾道フィルム・コミッションによる「五分間ノ尾道物語リ」映像コンテスト(尾道をモチーフとしたショートストーリー)に、尾道市在住の麻生祥代さんの「その時代に光をあてた写真家・原田富夫」の作品が入賞されました。

 昭和20年3月、原田富夫は出兵した。その前日まで、撮り貯めていた写真をアルバムに整理した。そこに残った写真たちは見事なものばかりだった。20歳で写真の魅力の虜になってから発表した作品の数々は、全国区のカメラ雑誌の賞を総ナメにした。当時の原田は著名な写真家達と杯を交わし、特に植田正治とは夜が明けるまで語り合った。

 彼が残した写真は記録という写真の指名を当然残しつつ、更に写真芸術の世界に入り込み、尾道を切り取っていった。戦争が激しくなり、写真を中断するまでの5年の間に、原田はその青春をかけて写真の中に人生を刻み込んでいった。その切り取られた時間と空間の表現力は、当時の写真界を震撼させた。太平洋戦争も激化した昭和20年3月、原田は言った。
「みんなが戦地に出向いている、私も行かなくては」 その夜から原田は過去の写真をアルバムに整理した。毎月発表した作品の共同制作者ともいえるモデルの少女“麗ちゃん”に感謝を込めて一冊送った。そして妻には多くの思い出と、感謝のアルバムを残していった。

 戦地から届いた便りにこう有った。
「元気でいるか、息子の写真を送ってくれないか・・・」
頼りはそれ以降無い。終戦を迎え、引揚者が帰ってくる中、原田からの連絡は無い・・・。引揚者を読み上げるラジオに釘付けになる日々が続いた。引揚者が落ち着いた頃、一人の男性が妻のもとに訪ねてきた。その人の言葉から夫の死を確信できた。

 写真の扉を開けて74年が経った。全日本写真連盟尾道支部・尾道写真クラブ55周年の展覧会が行われた。会場受付の横にクラブの歴史を物語る資料があった。その中に尾道を撮り続け、写真文化とそのレベルの高さを誇った原田富夫の資料があった。
 今、尾道の写真レベルの高さと、尾道に生きた写真家・原田富夫の世界を回顧し、尾道の文化レベルの高さを再認識したい。そして、今一度、原田の写真芸術の世界に浸れる事を感謝したい。

原田富夫(原田とみお)1914〜1945
大正3年(1914年)尾道市土堂町に生まれる。
昭和7年尾道商業高校を卒業後、羅紗・衣料を扱う家業に就く。
昭和8年頃(19〜20歳)写真を始め、その魅力の虜になる。
昭和10年頃(21歳)ドイツのカメラ(ローライコード)を手にし、ご近所の少女をモデルにした、
「麗ちゃん」シリーズを撮影開始。
毎月全国区の写真雑誌に投稿。数々の賞を得、全国的にも名前を知られた存在になる。
昭和15年(26歳)、戦時色高まって広島県連に勤務し、趣味の写真撮影は中断。
昭和16年、結婚。昭和18年、長男誕生。
昭和20年3月(31歳)、戦争激化に志願して出兵。
ソ連と中国(満州)の国境付近に配属され、家族を気遣うハガキを最後に、音信不通となる。
昭和20年8月、終戦。
昭和31年7月、ソ連生存者名簿になく戦死者として伝達式。
後年、昭和20年8月10日戦死、と推定された。
享年31歳

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